映画「許されざる者」を観て感想文。

許されざる者 [Blu-ray]

 

1992年公開。クリント・イーストウッド監督、出演の映画で、第65回アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、編集賞受賞作品。

wikipediaの解説によれば、イーストウッドはこの映画の脚本を製作の10年以上前から買い取っていたが、主人公のマーニーを演じるために同じ年齢になるまで待っていたらしい。翌年の「ザ・シークレット・サービス」と共に、一線をやや退いたものの、その魅力は健在という初老のイーストウッドを観ることのできる作品。

 

1881年のワイオミング、ビッグ・ウィスキーという街で、カウボーイとトラブルを起こした酒場の娼婦が顔をナイフで切られる事件が起きる。保安官はカウボーイに対し、酒場側に7頭の馬を引き渡すことで穏便に治めようととするが、娼婦たちは納得せず、事件を起こしたカウボーイの首に賞金をかける。

この話が広まり、この賞金が欲しい若者キッドはこれまで悪行を繰り返してきた伝説的なアウトローであるマニーを相棒にするべく話を持ちかける。マニーは結婚を機に改心し、二人の子どもにも恵まれて堅実に暮らしていたが、妻に先立たれ、農場もうまく行っておらず、子どもたちとの生活のため、この話に乗ることにする。マニーはかつての相棒であったネッドを仲間に加え、賞金首であるカウボーイたちを追う。

こういう時代、こういう場所で、こういう人たちが…という物語のセットアップは冒頭でわかりやすく描かれているのだが、話が進むにつれて、人物に対する見方が段々と変わってくる。最初こうだと思っていた人が実は違って、こうなのではないか?と思わせられるようなつくりになっている。そのような中で、最大のテーマ、疑問となるのは、

 

許されざる者」とは誰だったのか?

「誰」にとっての「誰」が「許されざる者」だったのか?

 

 順に挙げてみる。

まず、カウボーイ。保安官の言うように、イカれてはいるがまじめに働いていて、職ナシの流れ者では無い。娼婦デライラに侮辱されてナイフで切りつけることになるわけで、カウボーイにとってはデライラが「許されざる者」になる。

次に、娼婦たち。言うまでもなく、彼女たちにとっては、このような蛮行に及んだカウボーイたちが「許されざる者」になる。

そして、保安官。マニーを主人公にした映画の為、保安官は悪役として描かれるが、彼は純粋に街の安全と平和のみを考えて行動しているだけで、彼にとってはそれを脅かす人間全てが「許されざる者」ということになる。

最後にマニー、もともとはこの「許されざる者 関係図」には登場していないが、賞金首を追うことで、自らこの輪の中に入り、結果的にネッドを殺し、店の前に晒した保安官とその仲間全てがマニーにとっての「許されざる者」となってしまう。

 

カウボーイたちについては読み取れないが(馬引き渡しに来てるし、反省してたのかな…?)、娼婦たちも保安官も、そしてマニーも信念に基づいて行動しており、そこには「悪い」などという思いは一切無い。「なぜ俺がこんな最期を」保安官は最後にこう言う。街の安全と正義のために残忍な悪党と向き合っただけなのに何でこうなるのか?最期までわからなかっただろう。

 

マニーが街を去る時に言った言葉は実に強烈。

「俺に向けて撃ったら、そいつだけじゃなく、女房も友達も殺す。家も焼き払うぞ」「ネッドを埋葬しろ。娼婦を人間らしく扱え。さもないと皆殺しにするぞ」、最後のカットではマニー演じるイーストウッドの横に星条旗が映る。この映画の公開1年前には湾岸戦争があり、小国クウェートにその50倍の軍事力を持って進行したイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍イラクのそれをはるかに上回る軍事力で攻撃を行った。自分と自分の友達、そして弱いものに手を出そうとする「許されざる者」は正義の名のもとに皆殺しだと言わんばかりに。イーストウッドはマニーを演じ、この映画を通じて、このあたりのアメリカを象徴的に描いているのではないだろうか?

映画「ガタカ」を観て感想文。

ガタカ [DVD]

アンドリュー・ニコルが1997年に監督したSFディストピア映画。

ガタカ(GATTACA)というタイトルはDNA塩基配列のグアニン(guanine)、アデニン(adenine)、チミン(thymine)、シトシン(cytosine)の頭文字を合わせたもの。

遺伝子操作により、一切の遺伝子疾患を除き、優れた知能や好みの外見の子どもをもうける事ができるようになった"そう遠くない未来"(The Not-Too-Distant Future)が舞台となる。

子どもは遺伝子操作を行い生まれた「適正者」と普通に生まれた「不適正者」に分けられ、知能、体力ともに優れたなものと見なされる適正者は、個人的にも社会的にも高い地位に就くことが約束される。逆に不適正者は差別され、入る学校や就く職業までもが制限される。

 

主人公は不適正者として生まれたヴィンセント。様々な疾患が後に高確率で発生することや、30歳程度が予想寿命であることが誕生数秒で判明する。我が子の未来に失望した両親は遺伝子操作による この世界では "普通の方法"で弟アントンをつくる。兄弟が成長する中で、当然のように何もかも弟にかなわないと痛感したヴィンセントではあったが、宇宙飛行士になる夢を抱き続けていた。しかし宇宙飛行士は適正者のみが選ばれる職業。履歴書をごまかしても毎日毎日行われる血液検査や尿検査で不適正者であることはバレてしまう。そこでヴィンセントは事故で選手生命を絶たれた適正者の元水泳選手ジェロームの生体IDを購入し、あらゆる検査をパスする方法を用いて適正者として宇宙飛行士を目指す為、宇宙局「ガタカ」の局員となる。

 

この映画の中で特徴的なのはまずビジュアル。どのカットも非常にスタイリッシュにまとめられている。非常に高いレベルで操作され、不自然なほど美しいビジュアルは遺伝子までもが操作される "すばらしい新世界"を象徴的に描いている。

適応者である周りのライバルたちとは確かに "元の出来" に差があることは否定出来ないが、ヴィンセントはその差を乗り越え、宇宙飛行士になる為に必死の努力を行う。画面に映る何もかもが美しいこの映画だが、操作され創りあげられた美しさとは違い、不適正者として蔑まれて生きる宿命を乗り越えるべく戦う彼の姿にこそ本物の美しさを感じることができるのではないだろうか。

 

最後に1つ興味深い点は、この映画のプロデューサーのひとりがダニー・デヴィーとであること。1988年の映画「ツインズ」で、最高の人間を創りだす軍の実験で優れた要素をすべて兄に取られて生まれたダメ弟を演じている。その弟の名前がヴィンセントだった。 

 

映画「スペル」を観て感想文。

スペル [Blu-ray]

サム・ライミスパイダーマン3部作の後、2009年監督したホラー映画「スペル」

原題は "Drag Me To Hell" で、「私を地獄へ引きずりこめ」 になるわけだが、「連れてって」の方が日本人に馴染みがありそうだ。まあ、そんなタイトルだと集客が見込めないと考えたのか、シンプルに「スペル」になっている。呪文やまじないのことだ。

 

銀行の融資担当のクリスティンはガーナッシュという老婆のローン支払い延期を断ったために呪いをかけられ、次々に起こる怪奇現象に苦しめられる。老婆の呪いから解放される為にクリスティンが奮闘するというお話。

 

ブロンドで可愛らしいクリスティンと対象的な醜い老婆の姿が描かれ、なんとなくクリスティン=善、老婆=悪と割りきって、可哀想なクリスティンを全面的に応援してしまいそうになるのだが、この映画は少し違う。クリスティンは完全なる善として描かれない。

 

クリスティンは農場で豚を育てて品評会に出すような幼少時代(肥満児だった)を送っていたが、父親が先立ったことで残された母親がアルコール依存症になったことで、客観的に自分の人生を見つめ直すことになり、故郷を捨て、銀行に勤めてひたすら出世を目指す。裕福な家に生まれた精神科医の素敵な恋人もいて「今度家族に紹介する」なんて言ってくれていて順風満帆な人生だ。惨めな昔には戻りたくない。

健気に生きるクリスティン。ここまでは肯定的に見ることができる。

だが、襲いかかってきた老婆を車の外に閉め出し、高らかに笑いながら「あんたの負けよ」とクリスティンが叫ぶ姿を見て、この娘 "何かが違う" と感じる。

(…ここで、老婆がブロックを持ち上げて窓を割るシーンは「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を思わせる。)

 

老婆は確かに醜い。目を背けたくなる外見やしぐさ。だが、本人が話すように、これまで彼女は誇り高く生きてきたのだ。亡くなった時に別れを惜しんだ多くの人々が集まっていることからもそれがよく分かる。それでも人を頼れず、どうしようもなくこんな若い娘に土下座までして支払いを待って欲しいと頼んだのに断られた挙句、セキュリティを呼ばれて店から追い出される。そんなわけで逆上して呪いをかけてしまうのだが、こうして見ると、見かけどおりの魔女だから呪いをかけてくるのではなく、たまたまこういう姿をしている人が「呪いのかけ方を知っていた」からということなのだろう。

 

一方、クリスティンは違う。一見綺麗に着飾っているが、ステータス維持の為に付き合っている恋人以外の交友関係は一切描かれず、やけに広い家に寂しさを紛らわせるためなのか子猫と住んでいる。

が、その子猫も呪いを解くための生け贄としてクリスティンはあっさりと殺してしまう。霊媒師に最初に生け贄の話を聞いた時は「ベジタリアンだし、捨て犬の施設でボランティアもしてるし、動物殺すなんて無理」とか話していたくせにである。元々豚を育てて品評会に出していたような子がどの口でという感じだ。 

 

呪いによる怪奇現象が酷くなり、大金を出して依頼した(大金を出したのは彼)別の霊媒者の尽力も効果ナシと知ると、別の人間に呪いを移して自分は助かろうと必死になる。だが、良心がとがめるのか、生きている人を犠牲にしたくはないという思いがクリスティンの中で強くなる。ここがこの映画で興味深いところで、彼女は完全なる善ではないが、かといって完全なる悪でもない。人間誰もが完全な善でも無ければ悪でもなく、やむにやまれぬ事情により、まるでそうなのかのように振る舞ってしまうことがある、そういうことなのだ。

 

最後にもう一つ興味深いのがクリスティンのコート。呪いをかけられた時は土気色のものだが、最後のシーンでは気分晴れやかに澄み切った空のような色のコートを買って彼のもとに向かう。ハッピーエンドになるのかどうか、それを言ってはネタバレだが、高橋ヨシキ氏は「原題そのものがネタバレだ」と… そういうことである。